観劇記録であるとか

タイトルの通り。

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』

会場:あうるすぽっと
作:鶴屋南北
脚本・演出:岡田利規
上演時間:3時間15分(第一幕110分、休憩15分、第二幕70分)


歌舞伎は2度ほど劇場で観たことがある、『桜姫東文章』は昨春シネマ歌舞伎で観た、岡田利規は『未練の幽霊と怪物』を観た、という状態で臨んだ。

桜姫東文章は非常にむちゃくちゃな、シネマ歌舞伎でも「歌舞伎史上最もスキャンダラスでドラマティックな物語」と謳うような話だ。
心中の失敗から話は始まって、生き残った清玄が桜姫(かつての白菊、心中で命を落とした)に出会っても恋仲にはなれず、桜姫は自分を犯した顔も分からない男に恋焦がれているし、その男(権助)と桜姫が結ばれたかと思ったら、すぐに権助は桜姫を女郎屋に売り飛ばすし、なんやかやあって桜姫は息子も権助も殺すし、むちゃくちゃである。
歌舞伎ではこの殺しのシーンが終わると、華やかな三社祭の場となる。権助から家宝「都鳥」を取り戻したことにより、桜姫がお家再興を果たし大団円。めでたしめでたし。
……えぇ、いや、そんな急にめでたしとはならないよ! というのがシネマ歌舞伎を観たときの感想である。


さて、今回の岡田利規版。
廃墟らしい場所で桜姫東文章の上演会をする、という劇中劇の様相だ。といっても桜姫東文章以外の物語があるわけでなく、出番のない者は芝居の邪魔にならないところに寝転んだり座ったりしながら芝居を観て、掛け声(大向う)をかける。
また結末を除き、大きなストーリー変更はない。ただし服装と言葉は現代の、なんだろう下北沢あたりにいそうな若者のそれで、だらっと脱力している。音楽はラップのバックトラックのような音が控えめに、ほとんどのシーンで流れている。


物語と演出についてもう少し詳しく書いてみたい。まず物語。大きなストーリー変更はないと記したが、近年歌舞伎で上演されるものとは異なる点が2つある。

1つは第三幕「押上植木屋の場・郡治兵衛内の場」の存在だ。この場面は初演(1817年)以来上演されていないそうだ。そしてこれが大変恐ろしい話だった。
ざっくりと、桜姫とその弟松若の身代わりとなって、寺子屋の娘小雛とその許嫁の弟半十郎が殺される話である。
殺すのは誰か。小雛の許嫁であり半十郎の兄、半兵衛がまず弟を殺す。次に小雛の父、郡治兵衛が小雛を殺す。殺すためのプロセスもひどい。半兵衛が半十郎と小雛に男女の間柄があるだろうと問い詰める。二人はそれを否定するが、脅迫をして無理やり男女の仲だと言わせる。そしてその罪で殺す。
どうやら『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」部分を元にしているらしい。これも身代わりとなって子が殺される話で、人気の演目だそうだ。
これの最も怖いのが、最後に松若が出て来て「かなしいことだなぁ」みたいなことを言って終わることだ。いや、そんな、あなたの替わりになって人が死んでるのにその一言で終わってしまうのか! と驚きヒヤッとした。

もう1点はラストで、三社祭の場がない。桜姫が都鳥を取り戻すと、舞台ツラに進む。そしてお十(桜姫の替わりに女郎屋に出された)に目配せしながら都鳥を手渡し、お十はそれを遠くへ力強く放り投げる。すると「ハレルヤ!」との掛け声が小雛を演じた者からかかる。


次に演出について。

動きは過剰にだらっとしているが、あくまで「現代訳」あるいは「岡田利規訳」であって、歌舞伎の上演の様子をわりとなぞっている。大立ち回りが闘いってより舞踊だよねっていうかんじも上手い。
抑揚もわりあいに、ある。ただ真剣さがないというか、反応はするけどどこか他人事のような、出来事と本人の間に一枚布があるような雰囲気だ。
上演の様子をなぞる、という意味では大向うの存在がある。役者が見得を切る時なんかに「○○屋!」とか言う、あれだ。今回は「イナゲヤ」だの「ポメラニアン」だの、最後「○○ヤ」っぽくなる固有名詞が使われている。

現代訳する以外にもう1つ、実際の上演との大きな違いがある。これからの展開が舞台の真ん中、目立つところにプロジェクターで映し出されるのだ。これは実際の観客にのみ向けたものではない。この上演会中、桜姫の劇を演じていない役者も、時にわざわざ振り返ってまで確認し、次のシーンに進む。


以下感想。……というかトピック大きく2つ。


まず現在の歌舞伎における女性の排除および家(イエ)の存在について。

大きく変更されたラストシーンは、それらに対する強い批評を示した。お家再興に繋がる家宝を投げ捨てそれに喝采を送る、というシーンが女性の俳優3名によって作られている。
調べて驚いたのが、大向うをかけられるのは基本的に男性に限られ、女性がするのはあまり歓迎されない、というしきたりが存在すること。客の反応まで性別で制限すんのかよと思ったが、これ含めての"芸"として様式が出来、それが権威と結び付いた"伝統芸能"になってしまったらそういうことも起こるのか、と理解した。

また劇中にかけられる屋号も、家(イエ/ヤ)とはあまり関係がなさそうな言葉が使われている。気を抜けさせるためとか、観客は劇中劇の演者(本作品の演者でなく)のこと知らないからとかかもしれないが、結果としてそういう効果があった。歌舞伎においても「○○屋」というのは屋号、店の名前であって家を直接指すわけではない(らしい)が、子に受け継がれるにつれ、家の意味合いが強くなっているように思われる。

昨年京都南座で歌舞伎を観たのだが、出雲の阿国像を眺めたすぐ後に、男性の出演者ばかりの演目を観るというのは奇妙な味わいがあった。(楽しんだが)
受け継いでいくものはあるだろうが、「伝統だから」「そういうものだから」で終わらせてはつまらないし、そもそもそれって伝統なの? あるいは、どうやって伝統になったの? という問いもあるだろう。
現代訳はされているが、大筋はなぞり続けた作品の最後に「やっぱ何なんだよこれ!」と申し立てをするような、そんなラストだった。


次に、演劇における「没入」について。
まぁこれは、私が成河のメルマガに登録をしていて、そこでブレヒトとか没入とかいった話が出たので考えるわけです。

詳しい方にとっては今更な話かもしれないが、演劇における「没入する」っていうのは物語にのめりこむことじゃないんだな!と感じさせられたのが本作だった。いやこれは、没入するというのは物語に没入するんだろう、と私が勝手に思っていたという話か。

先ほど書いた通り、本作では今後の展開が舞台上で示される。どんな展開になるんだろう、とワクワクしながら役者の動きを追うことはないわけだ。当然歌舞伎にはそんな説明書は出てこない。が、じゃあ観客が予想もつかない展開に胸踊らせているかといえばそんなこともない。新作歌舞伎をのぞく大半の演目は、過去から繰り返し何度も上演されたもので、あらすじも詳細なものが調べればすぐに出てくる。歌舞伎をよく観る人は筋を把握して観に行っており、ほとんど行かない人は言葉からして分からないので、予めあらすじを読んだりイヤホンガイドを借りたりすることで演目を楽しむ。今日の歌舞伎上演は、物語の展開を追う楽しみが醍醐味の演劇ではないのだ。
展開を知った上で楽しんでいるのだ、もちろんそういう側面もあろう。何べんも観てしまう映画とかもそうだ。しかし歌舞伎には物語そのものへの没入を許さない存在がある。大向うだ。劇のキャラクターではなく、役者に対する掛け声が劇中にかかる。それがフォーマットになっている。昨年観た歌舞伎では大向うは禁止されていたが、花道に花形役者が登場したり去っていけば拍手が起こった。つまり観客は物語を楽しむだけでなく、役者を見に行っており、そしてそれは劇の展開が最高潮を迎える時でも忘れ去られることなく、むしろその時に強く感じられさえする。

では、そんな物語に没入させない歌舞伎が、ドライな"叙事的"な演劇かといえば、そうではない。華やかな場面では客席も明るい雰囲気になるし、重たい場面は客席もグッと集中する。その時観客が没入しているのは、歌舞伎という劇空間だ。
役者や美照音響そして観客が、歌舞伎の形式を意識しそれに則ることで演目が成立する。よく役者や演出家が「お客さんが入ることで演劇は初めて完成する」と言ったりする。そうだと思う。しかしその客の反応までもが形式化されている、あるいは求められる反応を客が察知しそうしているのだとしたら、それは恐ろしいことだと思う。そしてこういうことは歌舞伎に、演劇に限らないだろう。私の反応は私の反応だけど、それは周囲の社会の影響を受けているものだ。そういう意識・疑い、みたいなことを思った。このブログだって、まさに。