観劇記録であるとか

タイトルの通り。

『リア王』

会場:東京芸術劇場プレイハウス
作︰ウィリアム・シェイクスピア
演出:ショーン・ホームズ
上演時間:1幕90分、2幕65分(途中休憩20分)

 
とても良い公演だった。

実のところ、翻案していないシェイクスピア劇を観るのは初めてだった。シェイクスピアの台詞は、英語なら韻を踏んでいたりして心地よいのだろうが、日本語にすると余分で堅苦しいばかりに思えた。その課題を翻案ではなく演出によって乗り越え、現代日本にも通ずる劇の趣旨を提示しているのが素晴らしい。

何よりもまず発話。たっぷり聞かせようとする人がほとんどいない。修飾が長い台詞はバーっと喋らせる。全てを聞かせる気がないようだ。ただそれで問題はない。今回の上演は、シェイクスピアの戯曲の上演より、シェイクスピア"劇"の現代訳に重きを置いているからだ。そんな目的をもって日本語上演に臨むにあたり、ことばは聞かせるべきところをしっかりと聞かせればよい、と割り切るのは上演方法の1つとしてありだなと思った。
だったら翻案すればいいじゃないか、という話もあるだろう。しかし、今回はカタいことばをそのままにすることで、演者の"演じている"感が際立ち、それが効果をもたらしていた。

登場人物は家族が多いが、あたたかな印象のそれではなく、それぞれ別の思いを抱えながら当座の役目をこなす集合体としてある。美術をオフィス的にするのもそうだし、3人の娘はいかにもなピンクドレス、リアの下にいる男性陣はスーツとブラウンのタートルネックで統一、と同一衣装が多いのも、与えられた役を務めてきた登場人物たちであることを印象づけていた。
リアが「煩わしい国務」を伴う王の権力を婿たちに与えつつ、「王の称号とその栄誉」は保持しようとするところから物語は始まる。役のガワには固執してそれに付随する責任は逃れようとするリア。しかし権力を手放してしまうと、やはりリアをリア王たらしめてきた装置も取り払われ、周りの人物たちも中身をあらわにしてゆく。舞台にある真っ白なオフィスの壁は壊され、ついには取り払われ、素舞台となる。
そしてリアが死に、新たな世代へと移り変わると、(血を流し臭いもするかつて生き物だった)死者たちは白い壁に覆い隠され、場はオフィスへと戻る。

 
段田安則は、リア王のつきぬけた虚栄心を表現していた。先ほど、たっぷり聞かせる人がほぼいないといったが、王の役として、軽い話し口でありながらもセリフを聞かせる。声量や滑舌もあるが、どこにトーンを置いて話すと伝わるかの感覚が優れているのだろう。
また明確に観客に向かって話しかけ案内する役回りを担う(前半では)エドマンド・(後半では)エドガーを演じた玉置玲央と小池徹平もそういう役としての発声が巧みだった。
あと、江口のりこファンなのですが、あの、怯えを抱えつつ懸命に立って訴えるようなまっすぐな表情・立ち姿がいつも好きでね。父親と対峙するところだったか、触れられて心底嫌そうにこわばる身体とか。江口のりこという役者は、ふつふつと抱えてきた女性の怒りを表現するのが上手い。最近売れているのは今語られる物語に存在していてほしい役者だからかと思う。若い女性には分かりやすい"美しさ"ばかりを求めておいて、中年女性となると幅が広がるこの世の(ムカつく)要請もあるだろうけど。
日本で女優をやるのはいささかつまらない。人間を描こうとする戯曲は大抵、男性を主人公として書かれる。女はそこに現れても、男を惑わす象徴としての存在でしかない。じゃなきゃ母。女性が主人公だとしてもその多くは娼婦だ。裸になるセックスに人間が現れるって。そうかもしれないけど、あまりにも同じパターンが多くて辟易する。

………。
話がずれました。

 
照明効果はよく効いており、ラストシーンは素晴らしかったが、嵐のシーン等はいささか目に負荷がかかりすぎるので抑えてほしいところ。
道化あるいは演劇と権力との関係性については、ちまちま調べ考えたい。

飛ぶ蝿は腐臭に寄ってきたものか。それをただ殺すだけでは何の解決にもならない。清潔そうにみえる機能的な空間の裏に隠れた臭いの原因は何か。
責務を全うしながら「感じたままを語り合」うためには。その方法の一つとして、例えば演劇。

 


・この記事の作成にあたり、文中引用や思い出しに、松岡和子訳『リア王』(ちくま文庫)を使用しています。

『箱根山の美女と野獣』『三浦半島の人魚姫』

会場:逗子文化プラザホール なぎさホール
作・演出︰長塚圭史
振付:柿崎麻莉子
上演時間:それぞれ1時間(途中休憩15分)


神奈川県内各地の公共劇場/ホールを巡って、KAATや演劇のこと知ってもらおうというKAATカナガワ・ツアー・プロジェクトの第2弾。会場は最も近い逗子で観た。とても良いプロジェクトだと思うので、今後も継続してほしい。

今回は、存在するか不確かなものを探すおはなしと存在するか不確かな場所で生きる獣のおはなしの2本立て。
門戸を広げる取り組みでありながら、「あやふやなもの」をテーマに扱い、物語も起承転結がはっきりした分かりやすいそれでないのは好ましい。柿崎麻莉子の振付と自身の身体表現が巧みで、仮に物語について行けずとも十分楽しむことができる作品となっていた。人魚姫でのデュエット、野獣でのソロのダンスは素晴らしかった。
ニッチな神奈川ネタは今回も。ニッチすぎて身近さには貢献していない。県内各地の神様がたくさん出てきたが、ほとんど知らなかった。どちらかというとテーマの方に貢献していたと思う。皆で集まって存在しない何かを"ある"とみなすこと。

ラインナップ発表の時不安だった『美女と野獣』における「軽やかにジェンダーを超えた」演出は、ある程度上手いこといっていた。出てきてすぐに笑わせるようなことはなく、あたり前に登場してきたのは良かった。
しかし、主人公の「触る?」は、いやらしくないとはいえ、唐突に出てくるものとしては強すぎて笑えない。また長塚圭史演じるキャラクターの長身いじりは良くないと思う。(女性でも長塚と同じ身長の人は存在する。)
何度か作品を見てきて、露骨なそれはないものの、長塚圭史ジェンダー表象その他がちょっとステレオタイプなかんじが否めない。公共劇場なんだし、新作かける時は監修入れてみるとかしても良いのではと思う。企画趣旨はいつも好きなので、安心して周囲に勧められる作家であって欲しい。

水曜夜の開催で、集客は350人程度か。昨年8月、同じく逗子で日曜昼に開催された『さいごの1つ前』より集客していた。なんで? キッズ・プログラムと思って大人は避けたのだろうか。よく分からん。
今回も子どもの姿が結構見られた。子どもに限らず、今回の種まきがまた次につながることを願うばかり。

『テラヤマキャバレー』

会場:日生劇場
作︰池田亮
演出:デヴィッド・ルヴォー
上演時間:2時間40分(途中休憩25分含む)

 
主演・香取慎吾、脚本・池田亮、演出・デヴィッド・ルヴォーでもって寺山修司日生劇場でやるという、娯楽作品ではあるんだろうな、くらいしか事前の予想がつかない演目。値段もそれなりにするし行くか迷ったのだけど、バンドメンバーに内橋さんがいるので一定面白いものが出てくるだろうと見込んで行った。あと単純に香取慎吾見たかった。
結果、あまり好みではなかった。

 
行くか迷った理由の1つとして、ゆうめい(池田亮が所属する団体)の『ハートランド』が好きじゃなかった、というのがある。岸田國士戯曲賞の最終候補になっているけども。
ゆうめい、といえば家族を、それも池田亮自身の家族を描いた作品で著名である。しかも実父が出演していたり、(実現しなかったが)実母をアフタートークのゲストに呼んだり、かなり攻めたことをやっていた。それで以前から気になっていて、予定が合ったのが『ハートランド』だったので観に行ったというわけだ。
本作で描かれたのは、実体験をもとに芸術を作る際起こる、"元ネタ"、つまり実在する人たちへの搾取や消費といった加害についてである。
そのテーマ自体はいい。いいのだけど、実の家族を用いているのを宣伝文句にしておいて、自覚なかったんだ!という驚きの方が勝ってしまった。観る側としても、危うい刺激を求める自らの悪趣味さは先刻承知して、共犯関係結んで観劇していたのではないか。それを急にはしご外されて素朴に反省されても困る。し、それならそれで加害をテーマにドカンと衝撃ぶつけるならまだしも、他にも色々要素盛り込んで作品としてまとまらない。そんな様子が私には合わなかった。

 
さて今回の『テラヤマキャバレー』。まさにこのテーマが扱われている。寺山修司が創作において母、ハツを用いたことへの罪の意識と、幼い頃から求めた母からの愛。『身毒丸』の台詞が引用され、無様に泣く寺山修司
あんなに露骨に母を使っておいて、今さら誰に許し求めてんだ? と思ってしまうのである。虚構の許しは得ずに、みんなで罪背負って生きていくために集団創作たる演劇やってんじゃないんですか? てなかんじで、まぁ気が合わない。

また『テラヤマキャバレー』自体も、実在する/した人物を扱う演劇なのだが、その手付きがかなり軽い。そもそもが"演"劇であるというのに加え、場面は寺山修司の夢の中、さらにその夢の登場人物がイタコよろしく憑依されているという構造で、単純に実在の人物を演じるのとは異なるのは承知している。とはいえだ。
虚実皮膜論を唱えたとされる近松門左衛門が、あんなにすぐ実に飛びつくだろうか。自衛隊に決起を呼びかけ、(その心根はともかく本人的には)言葉を尽くた後自決した三島由紀夫が、現代の若者と対話するのを諦めてただ座っているだろうか。そして「偉大な質問になりたい」と記した寺山修司が、最後の質問と言いつつ軽い質問を重ねてしまうものだろうか。
私の身勝手な理想とズレてるだけですか? それともある種スター化された人物を人間に引きずりおろすための試みなんですか?(質問)

 
……それでもまぁグッとくるところもあって、それは寺山修司が演劇の喜びを語るくだり。あそこは好きだった。というか、このシーンがないとだいぶキツかった。
ここでのメッセージが芝居の終盤にあるから、これは寺山修司やその周辺の人物そのものについてではなく、寺山修司を中心に演劇(特に日本の)について表現する作品なのだと観客は掴める。そして今までのシーンや人物描写に納得は出来なかったとしても、理解はして劇場を後にできる。

ただ他にも引っかかりはある。
現代の若者を見て「ことばが無い」と言うけど、寺山の言葉を狂信的に求める劇団員たちには、言葉、あるんですね、とか。
『武』と色紙に書かずに死ぬことにした三島由紀夫に、ずいぶん気軽に『武』やその他色紙を持たせるよなとか。三島が身体鍛えてたのは確かだけど、そういう曲芸的な方向で表現するのはどうなの?とか。いや、三島のそういうあり方は私も別に好きなわけじゃないけど、変わった形で使うなら、きちんと批評するかもっとおちょくるかしたらどうなんですか、つまみ食いするような要素じゃないでしょう、なんて思うわけですよ。

 
というわけで、引っかかりの方が多すぎて私はあまり楽しめませんでした。
平間壮一の身体能力素晴らしい。成河はシンバルを落とすの含め、諸々タイミングが絶妙。(「シンバルを落とすと〜」の件は成河への当て書きだろう)
音楽は、スティーヴ エトウさんが色々面白い音を出していて楽しい。最後にドラム缶叩いてんの気付いて驚くなど。
初めましての日生劇場はロビーに椅子が多いし劇場内の内装は素敵だし客席は広すぎないしで良かったです。
あとカテコでニコニコしている香取慎吾見れて、あぁこれが見たかったんだと思った。だったらライブに行け。

観劇まとめ(2023年)

年が明けて、もう1月も下旬で今更ではありますが、2023年の観劇は以下の通りでした。


劇場
2月
桜姫東文章』@あうるすぽっと
笑の大学』@PARCO劇場
3月
『掃除機』@KAAT 中スタジオ
4月
『ブレイキング・ザ・コード』@シアタートラム
ラビット・ホール』@PARCO劇場
ハートランド』@東京芸術劇場 シアターイース
クレイジー・フォー・ユー』@KAAT ホール
5月
『XXLレオタードとアナスイの手鏡』@静岡芸術劇場
天守物語』@駿府城公園内特設劇場
『怪獣回しし』@ストレンジシード静岡
『χορός/コロス』@ストレンジシード静岡
『わたしが土に還るまで』@ストレンジシード静岡
『ギガ鳥獣ギガ』@ストレンジシード静岡
『equal/break-fast』@ストレンジシード静岡
『BGM』@KAAT 大スタジオ
『REVISOR』@神奈川県民ホール
6月
『ある馬の物語』@世田谷パブリックシアター
7月
『犬と独裁者』@駅前劇場
『兎、波を走る』@東京芸術劇場 プレイハウス
8月
『さいごの1つ前』@逗子文化プラザ なぎさホール
桜の園』@PARCO劇場
ムーラン・ルージュ』@帝国劇場
9月
アメリカの時計』@KAAT 大スタジオ
『切り裂かないけど攫いはするジャック』@本多劇場
10月
『金夢島』@東京芸術劇場 プレイハウス
11月
『極付印度伝 マハーバーラタ』@歌舞伎座
ねじまき鳥クロニクル』×3回 @東京芸術劇場 プレイハウス
『無駄な抵抗』@世田谷パブリックシアター
12月
『外地の三人姉妹』@KAAT 大スタジオ
『十二月大歌舞伎 第二部』@歌舞伎座
ジャズ大名』@KAAT ホール

映像・配信
6月
『チャンピオン』(METライブ)
9月
『骨と十字架』(新国デジタルシアター)


というわけで、2023年は31作品33回、映像含めると33作品35回観たようです。
ストレンジシードで稼いでいる部分が大きいですが、過去最多です。そして、見過ぎたな、と思いました。観劇趣味者の中ではかなり少ないはずなのですが。12月くらいに、数観てもとくに得るものはないなと思ったのと、1年の貯金額が少なかったのにがっかりしたので、2024年は減らすような気がします。とはいえ3月までは月2ペースで観そうだ。

良かったもの。
まず『ねじまき鳥クロニクル』の再演は、ずっと待ち望んでいたものだったのでとても嬉しかった。途中、成河の残念な発言があったので心穏やかではなかったけれど、それでも幸福な再演だったと思う。あの作品での渡辺大知はもっと評価されるべき。
最も良い作品だと思ったのは『桜姫東文章』。演出もクールだし、音楽もいいし、フェミニズムの観点もあってよかった。清玄の幽霊が早替えでなかったのはちと残念だったが。
心動かされたのは『さいごの1つ前』。あの愛に満ちた空間がとても良かった。あと『わたしが土に還るまで』も良かった。自然の中で、生きて死ぬことの奇跡を見せつけられた。
是非再演して欲しいのは、『極付印度伝 マハーバーラタ』と『ジャズ大名』。どちらも分かりやすい楽しさの中に、悲しみが横たわっている作品だ。音楽も良い。再演して、より多くの人のもとに届いて欲しい。
その他、『掃除機』における環ROY、『金夢島』の字幕が良かった。『XXLレオタードとアナスイの手鏡』における常時のバリアフリー上演も。(字幕が見づらいとの指摘があったようだが)

振り返って改めて、やはり自分は生演奏付きの作品が好きだなと。何ですかね、演奏家がいることで、これは娯楽作品ですよ興行ですよというのが意識されるのがいいのかな。独りよがりでなくなるというか。
歌舞伎がわりと手頃なのに気付いた年でもあった。興味あるのあればまた行くかもしれない。生演奏だし。
昨年はNTLに行けなかったのが残念。色々と観たいのはあったのだが、スケジュールが上手くあわず。お願いだから神奈川の上演劇場を川崎に戻して欲しい。一方METライブが上演館充実なのには驚いた。
あと嬉しかったのは、堀尾幸男さんの展示でPARCO劇場の舞台上に上がれたこと。知らずに行ったので激アツだった。舞台上から観るとより一層親密な劇空間だなと感じた。

2024年はどうなるやら。SNSにリンク付けてない今、誰がどうやったらこのブログに辿り着くのか分かりませんが、ちまちまとのんびり更新するつもりです。

 

個別で記事あげなかったものについて以下簡単に記述。

笑の大学』@PARCO劇場
なぜか2幕ものと勘違いしており、気持ちの行場に困った。のと『桜姫東文章』を観た後で劇構造がなんだとかそういう頭になっていたのが良くなかった。
そんな中でも、検察官(演:内野聖陽)が、自分の行った仕事の行き着く先を知ったときの間抜けな表情が印象に残った。

『ブレイキング・ザ・コード』@シアタートラム
役者は皆、演技が大仰で声が大きすぎると思った。スタイリッシュな演出は好みだったが、それでなぜあんなに声を大きく出させたのか。
死をロマンチックに扱う。それは理不尽に扱われる現実からの逃避として生まれるものか。最後の暗転の中、ギュッと胸を締め付けられた。

ラビット・ホール』@PARCO劇場
そうだね、と思って終わってしまった。
この作品の感想とは外れるのだが、そもそも大劇場でやるあぁいう具象が好みでない。だったら映画でも観に行きたい。成河期待で行ったが、そういった感覚は特に変わらず。リアリズム、ということでいえば、あんな大きな空間で役者たちが目の前にいるはずの観客たちをいないものとして「現実的に」演技すること自体が不自然ではないか。

ハートランド』@東京芸術劇場 シアターイース
合わず。ただ冒頭の映画館の演出は面白くみた。
実の家族の話を何度も題材にしてきて、その暴力性は承知しつつやっているんだろうと思っていたが、そうじゃなくて本当に今気付いてこの作品を作った、というのには驚く。悪い意味で。

天守物語』@駿府城公園内特設劇場
客席もふんだんに使って楽しい芝居。
朱の盤坊がセクハラをするシーン(そして真剣には咎められない)が気になった。人じゃないから描写として良しとすべきものか。

『BGM』@KAAT 大スタジオ
びっくりするほど合わなかった。なんだろうこの合わなさ。あのあたたかな空気に全く馴染めなかったし面白さを見出だせなかった。

『REVISOR』@神奈川県民ホール
ダンス公演だが、ナレーションが非常に重要。しかし、大きな会場のためパフォーマンスを見ようとすると字幕が見えない。英語力不足に悔しさを覚える。
とはいえ、非英語圏でやるならもう少し小さいハコでやるか字幕見やすくするかして欲しい気持ちがすごい。

『犬と独裁者』@駅前劇場
当日券を購入したら最前センターを案内されビビる。久々の小劇場。劇団印象は以前から気になっていたのだ。
結局人は人を殺すのが嫌なのだと思い至った。だから、直接手を下さないようシステム化するとか、その対象を人とみなさないようにするとか、殺害にロマンを与えるとか色々しているのだろう。

『兎、波を走る』@東京芸術劇場 プレイハウス
近年の野田地図の中ではわりと好きだった。ただ歴史的な事象を混ぜ込むのではなくて、そういう作劇をする劇作家として、作家とは?物語とは?という問いに『フェイクスピア』よりは深いとこで向き合っているように思えた。
あるいは単に(野田地図では久々の)1階席だったから楽しめたというのもあるかもしれない。松たか子がたいへんキュート。

桜の園』@PARCO劇場
ペアチケを利用して母と連席で取った結果、集中出来ず。演劇は一人で沢山の人と観るに限る。落ち合うのは、後。
この場所がなくなってしまうかもしれないという重大な問題について認識はしつつもやりすごしてしまう。その愚かさ。皮肉。とか?

ムーラン・ルージュ』@帝国劇場
楽しかったね。終。
少しアルコール入れて、ショー見物と思って観た。途中周り泣いてて、えぇ…と思う。それ含めて観劇の面白さですね。
帝劇2階最後列センターはわりに親密、と思ったが、そのあと歌舞伎座が3・4階席が更新していくのだった。

アメリカの時計』@KAAT 大スタジオ
終わってすぐ金購入について調べてしまったくらいには差し迫った問題だったが、特に残らず。戯曲があまり好みでないのかもしれない。

『切り裂かないけど攫いはするジャック』@本多劇場
楽しくはあった。ジャックが堂々とさらっていくとこの反応とかとても面白かった、が。
エチュードで積み重ねて作っている感がすごくて、個人的に懐かしくも、エンタメ作品としての完成度としては物足りなかった。最後大きな装置ぶっこんで無理やり終わらせる感じとか、分かる、と思いつつ。

ねじまき鳥クロニクル』@東京芸術劇場 プレイハウス
思いがありすぎてまだ記事に出来ない。この4年近く、この作品と共に生きてきたと言ってよい。最後の観劇時にすとんと落ちるとこがあって、その上でまだ深堀れると思った。まだしばらく共にありそうです。

『無駄な抵抗』@世田谷パブリックシアター
池谷のぶえがとても良かった。彼女の悲痛な宣言に胸が苦しくなった。
ただ「無駄な抵抗」や「運命」という言葉から想像していた物語とは異なっており、またそれが良くなかった。性暴力への眼差しそれ自体は良いのだが、性暴力は運命によるものでなく、特定の人間の加害によるものだ。作中で起きる悲劇は概ね一人の人間に起因しており、運命という大きな言葉に対してはミニマムだし、その罪を大きな話に転じさせるのは逆に罪と向き合えていないように思えた。
あと、いくら人があまり乗っていないとはいえ、電車を故意に脱線させるのは個人的に好みでない。

『外地の三人姉妹』@KAAT 大スタジオ
チェーホフ『三人姉妹』の翻案。チェーホフの方は読んでいない。
概ね良かったが、話全体はそうだねと思ってみてしまった。男中心で、女も分かってそれに乗っているかんじがよく現れていた。また日本が韓国にしたことは勉強しなくてはいけないなと改めて。
次女の夫、倉山のそら恐ろしさ。こういう人間を描けるのがチェーホフ(短篇集は読んだんです)の強みであり、それに説得力をもたせる翻案・演出・演技であった。

『十二月大歌舞伎 第二部』@歌舞伎座
舞踊劇の『爪王』と忠臣蔵モノで新作の『俵星玄蕃』を観た。当初は第三部の『天守物語』を観たいと思っていたのだが、舞台映像を観たら2部の方が面白そうだったのでそちらを。席は3等A席。(前日でも余っていた)
『爪王』は舞踊というか、美しいアクションが魅力。ふぶき(鷹)が可愛い。勘九郎の身体能力も素晴らしく。回転しながら出てくるのもさりげないが美しい。
俵星玄蕃』は三波春夫が歌ってる動画を見てから行った。つまらなくはないが、最後の立ち回りはちょっと退屈する。役者は市川青虎が良かった。

あとパフォーマンス枠として。国立新美術館でやっていた『大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ』展での鈴木竜のダンスパフォーマンス。これがとても良かった。暗く広い部屋で1枚の大きな布が風に揺られている。海のよう、生き物のよう、異界への入口あるいは境目のよう。そこに人間が立ってソレと向き合う様はより一層その印象を強くさせていた。

『ジャズ大名』

会場:KAAT神奈川芸術劇場 ホール
作︰筒井康隆
演出:福原充則
上演時間:2時間10分(休憩なし)


筒井康隆の短篇小説『ジャズ大名』の舞台化。神奈川芸術劇場の公演だからか、舞台を神奈川の荻野山中藩に置き換えている。

神奈川県内陸部に位置する荻野山中藩は、小田原に流れ着いた黒人3人を預かることになる。地下牢に閉じ込められた3人は、気を紛らわせるため日々歌い踊る。荻野山中藩藩主である大久保教義はそこから漏れ聞こえる音楽にすっかり魅力されてしまい、それは藩全体へと伝播していく……。

楽しかった。
毎年とはいわずとも、時折年末に上演してほしい。稽古場での進化発展は特にないかもしれないが。
展開がわかりやすい。また音楽が魅力的なので、話にハマれなくても楽しめる。そういう大衆さがある一方で、どうしようもなく進んでいく歴史の大波への無力さといった明るくはない思いが物語の中に常にあり、作品を楽しいだけのそれではなくしている。
途中、黒人3人の経歴がしっかりと語られるのも良かった。

千葉雄大は魅力を発揮。千葉ヒャダ旅でみれる彼の面白への追求は、もっと多くの作品においても機会を与えられるべき。他の役者も皆良かった。
あとテルミンの格好良さね! 楽隊の最前列で一人だけ立ってやるので場を支配する王ぽさがあった。

ラストの畳み掛けはなんかもうめでたくて、年末にぴったり。色んな人間、死者までもが入り混じって楽しい時を共有する喜び。とはいえ"忘年"するだけではいけないよね、という。

『極付印度伝 マハーバーラタ戦記』

会場:歌舞伎座
演出:宮城聰
上演時間:全3幕、4時間30分(途中休憩2回、35分・20分含む) 

 

マハーバーラタを歌舞伎化したもの。
マハーバーラタに触れたことがないのでよく分からないが、大筋はそのままに、設定をいくらか変えて歌舞伎らしく、あるいは日本人好みにしているようだ。

ざっくりと、人間界における王位を巡る争いの話だが、その主要人物となるのは神の子であるカルナとアルジュラだ。カルナは平和によって、アルジュラは力によって世を治めるべくそれぞれ命を得た。しかし、カルナが鶴妖朶(づるようだ)王女に気に入られ、互いに永遠の友情を誓ったところから話が変わってくる。鶴妖朶はアルジュラら5兄弟と王位を巡り対立しているのだが、その攻撃の仕方が非常に残酷なのだ。そんな様子を垣間見て友をいさめたり疑ったりしながらも、カルナはこの王位争いに鶴妖朶側として巻き込まれていく……。


いやぁ楽しかった。
マハーバーラタも歌舞伎もほぼ分からない人でも楽しめたのがすごい。新作歌舞伎とはいえ。

まず最初のシーンが神々の話し合いの場から始まるのだが、金ピカの神がずらっとならんでいて、たいへん縁起が良い。何を言っているか完璧には掴めなくとも見た目だけで楽しくワクワクとする。最後は盆を回しての場転なのだが、照明がすばらしく、仏像展でも見ているのかと思った。
そんな導入で惹きつけたところで、話も面白く進む。最初は自然とカルナを応援するのだが、段々と善悪が混じり合って、完璧な善も悪もいなくなっていくのがとても良い。ところどころいかにもな名言が入るのだが、全体がそういう展開なので説教くさくなく、言葉を受け取りつつ検討させる余地を客席に与えている。
視覚的にもよく魅せている。ラストのカルナ・アルジュラの戦いは舞台を奥まで広げ、長い旗をなびかせて空間を埋め、迫力を出していた。いわゆる殺陣も面白いが、こう舞台全体を使って魅せてくるのもいい。また、ジャングルを模した現代的な美術を背に、三味線の演奏が見れたり(出語りというのか?)、獅子の舞が観れたりするのも、タイトルにつられて来た歌舞伎不慣れ客に歌舞伎の要素たくさん見せてくぜ!!というような気概を感じたし、こちらも色々見れて嬉しく。

そして、自分がなかでもやられたのが鶴妖朶。魅力的な悪役というのでなく、相反する気持ちを抱えた人間として存在していたのか良かった。発声がかなり独特で、歌舞伎の女方的でなく、アニメやその他舞台で聞いたような"格好いい女性"の声に近い。その独特さが鶴妖朶の孤独を表していた。
悪に手を染めたのは周囲から見放されていたからだと自ら語るのは被害者面すんなよと思わなくもないが、中村志のぶさんの熱演は、こうならなくてもよい道を作るために皆で何か出来たんじゃないか、今何か出来るんじゃないかと観客に問わせる力があった。何より、人を変えるのはその人にまっすぐに向き合う人間なのだということ。そういった想いをぶつけられて、鶴妖朶の最期は少し泣いてしまった。


今回行こうと思ったのは、音聴きたさ。5月に観たSPACの音楽が好みだったし、日本の古典的な音楽もことばもわりに好きなのです。しかし手頃な3階席は売り切れており、かといって音目的に一万円超えの席を取る気もしない。ということで、幕見席を前日オンラインで購入。3 幕で計4,330円也(手数料込み)。ありがたいことです。
で、この幕見席がかなり良くて。歌舞伎玄人っぽい人もいれば、英語パンフ持った観光客もいる。インド文化好きで来ました歌舞伎わかんないですってかんじの人もいる。色んな人たちが集まって1つの演目をそれぞれにみる。これが「芝居」の良いところなわけですが、今の劇場は熱心な演劇好きか役者のファンばかりで客層偏っちゃってその魅力に欠けがちという課題がある。でもこの幕見席の雑多さよ! やっぱ値段安くて当日買えるチケットが毎日それなりの数用意されてんのはでかい。
そして席としてもわりと良い。視界は概ね良好。そんなに遠くないし、歌舞伎メイクなんで表情をつかみやすい。舞台奥や花道の一部は見えないが、アクションがちょい見えないくらいで、ほとんどは見えるとこで演技してくれる。また音もよく聞こえるし、大向うも近くで聞こえて楽しい。なんていい席! 「歌舞伎座 座席」で検索して幕見席が好きだと言う人が一定いる理由がよく分かった。


娯楽としての歌舞伎と古典芸能としての歌舞伎。それにインドとSPACがまじりあい、舞台上も客席も色々なまま、共にいる。戦争をせずにすむ世の中を考える。とても良い時間が過ごせました。

『金夢島』

会場:東京芸術劇場 プレイハウス
作・出演:太陽劇団
上演時間:3時間15分(途中休憩15分含む)

 

フランスに劇場を持つ、太陽劇団の来日公演である。

芸劇の先行抽選ならいい席が取れるだろうと思い、申し込んだら2列目の端。端かよーなんて思っていたけど見切れもほとんどなく良い席でした、ありがとうございます。上手デハケの様子は分からなかったが、前触れもなく大きなものが飛び出してくる(大きな出ハケ口は上手にあり、大道具はそこを通る)様は、まさに夢を見ているようだった。

フランスで病に伏せるコーネリアの見た/観た、日本の、演劇祭の夢。

幕がサッと取り払われるとそこは大きな倉庫。舞台奥、倉庫の外側には幕が張られており、倉庫の窓が開いていると、幕に映し出される外の様子(既存の日本画を用いている)が見て取れる。また、舞台上部には金夢島の四季を描いた幕が何枚か吊るされており、字幕はそこに写し出される仕組みだ。
この倉庫が物語の舞台になることもあれば、島の別の場所が舞台になる時もある。その時は、倉庫の装置はそのままに、役者たちが車輪のついた台など大道具を運び込み、別の空間を作り上げていく。
ただこの転換はいささか時間がかかる、というか長い転換の際に転換以外の演出を入れないことがしばしばで、そこは少し退屈した。が、概ね面白くみた。

演劇祭、特に国際演劇祭なので様々な国から劇団がやってくる。言語も様々だ。各々が各々のままで、ともにいる。そういう平和のための祈り。We'll Meet Again. 
と、まぁぐっとこないこともないが、目下ひどい戦争、というか侵略と殺戮が起こっている中で、呆れたように言う「やめればいいのに」はあまりにも雑だと思うし、ラストシーンで流れる『We'll Meet Again』もWW2の際にイギリス軍の慰問コンサートで使われたということで、良い曲だが相応しい曲ではない気が。
もしかしたら大国フランスから来た劇団だ、と思うから違和感を覚えるのかもしれない。コーネリアが言っている、と思えばまぁ。

楽しかったのは風呂場のシーン。役者がふくよかな肉襦袢を着て、裸をいやらしくなく、間抜けなものとして見せているのが好ましかった。湯気はスモークをたき、水音は近くに水の入った桶をおいてアクトに合わせて作っているのも楽しい。
あと、字幕について触れておきたい。字幕は最前と舞台中程、2箇所の幕に写し出される。しかも舞台中程の字幕は、アクティングエリアに応じて写す幕を前後させている。素晴らしい。かなりの前列だったが、字幕を見るのにストレスを覚えなかった。

全体に、基本楽しんだが、めちゃくちゃ感動したわけではなかった。
それより、劇団のフラットな、全員が楽しんで皆で作り上げるかんじ(かといっていわゆる手作り感ではなく、洗練されている)、1つになるのでなく様々な人たちが集まって共にいる様がとても好ましかった。その様子にじわっと癒やされた時間でした。