観劇記録であるとか

タイトルの通り。

『リア王』

会場:東京芸術劇場プレイハウス
作︰ウィリアム・シェイクスピア
演出:ショーン・ホームズ
上演時間:1幕90分、2幕65分(途中休憩20分)

 
とても良い公演だった。

実のところ、翻案していないシェイクスピア劇を観るのは初めてだった。シェイクスピアの台詞は、英語なら韻を踏んでいたりして心地よいのだろうが、日本語にすると余分で堅苦しいばかりに思えた。その課題を翻案ではなく演出によって乗り越え、現代日本にも通ずる劇の趣旨を提示しているのが素晴らしい。

何よりもまず発話。たっぷり聞かせようとする人がほとんどいない。修飾が長い台詞はバーっと喋らせる。全てを聞かせる気がないようだ。ただそれで問題はない。今回の上演は、シェイクスピアの戯曲の上演より、シェイクスピア"劇"の現代訳に重きを置いているからだ。そんな目的をもって日本語上演に臨むにあたり、ことばは聞かせるべきところをしっかりと聞かせればよい、と割り切るのは上演方法の1つとしてありだなと思った。
だったら翻案すればいいじゃないか、という話もあるだろう。しかし、今回はカタいことばをそのままにすることで、演者の"演じている"感が際立ち、それが効果をもたらしていた。

登場人物は家族が多いが、あたたかな印象のそれではなく、それぞれ別の思いを抱えながら当座の役目をこなす集合体としてある。美術をオフィス的にするのもそうだし、3人の娘はいかにもなピンクドレス、リアの下にいる男性陣はスーツとブラウンのタートルネックで統一、と同一衣装が多いのも、与えられた役を務めてきた登場人物たちであることを印象づけていた。
リアが「煩わしい国務」を伴う王の権力を婿たちに与えつつ、「王の称号とその栄誉」は保持しようとするところから物語は始まる。役のガワには固執してそれに付随する責任は逃れようとするリア。しかし権力を手放してしまうと、やはりリアをリア王たらしめてきた装置も取り払われ、周りの人物たちも中身をあらわにしてゆく。舞台にある真っ白なオフィスの壁は壊され、ついには取り払われ、素舞台となる。
そしてリアが死に、新たな世代へと移り変わると、(血を流し臭いもするかつて生き物だった)死者たちは白い壁に覆い隠され、場はオフィスへと戻る。

 
段田安則は、リア王のつきぬけた虚栄心を表現していた。先ほど、たっぷり聞かせる人がほぼいないといったが、王の役として、軽い話し口でありながらもセリフを聞かせる。声量や滑舌もあるが、どこにトーンを置いて話すと伝わるかの感覚が優れているのだろう。
また明確に観客に向かって話しかけ案内する役回りを担う(前半では)エドマンド・(後半では)エドガーを演じた玉置玲央と小池徹平もそういう役としての発声が巧みだった。
あと、江口のりこファンなのですが、あの、怯えを抱えつつ懸命に立って訴えるようなまっすぐな表情・立ち姿がいつも好きでね。父親と対峙するところだったか、触れられて心底嫌そうにこわばる身体とか。江口のりこという役者は、ふつふつと抱えてきた女性の怒りを表現するのが上手い。最近売れているのは今語られる物語に存在していてほしい役者だからかと思う。若い女性には分かりやすい"美しさ"ばかりを求めておいて、中年女性となると幅が広がるこの世の(ムカつく)要請もあるだろうけど。
日本で女優をやるのはいささかつまらない。人間を描こうとする戯曲は大抵、男性を主人公として書かれる。女はそこに現れても、男を惑わす象徴としての存在でしかない。じゃなきゃ母。女性が主人公だとしてもその多くは娼婦だ。裸になるセックスに人間が現れるって。そうかもしれないけど、あまりにも同じパターンが多くて辟易する。

………。
話がずれました。

 
照明効果はよく効いており、ラストシーンは素晴らしかったが、嵐のシーン等はいささか目に負荷がかかりすぎるので抑えてほしいところ。
道化あるいは演劇と権力との関係性については、ちまちま調べ考えたい。

飛ぶ蝿は腐臭に寄ってきたものか。それをただ殺すだけでは何の解決にもならない。清潔そうにみえる機能的な空間の裏に隠れた臭いの原因は何か。
責務を全うしながら「感じたままを語り合」うためには。その方法の一つとして、例えば演劇。

 


・この記事の作成にあたり、文中引用や思い出しに、松岡和子訳『リア王』(ちくま文庫)を使用しています。