観劇記録であるとか

タイトルの通り。

観劇まとめ(2022年)

2022年の観劇は以下のとおりでした。

劇場にて
2月
冒険者たち』@KAAT 中スタジオ
『TOUCH-ふれる-』@横浜赤レンガ倉庫一号館三階ホール
3月
冒険者たち』@ヨコスカ・ベイサイド・ポケット
5月
『能を知る会 成上り・箙』@鎌倉能舞台
『能を知る会 宝の槌・巴』@鎌倉能舞台
『(アマチュア演劇)』@高田馬場ラビネスト
『お勢、断行』@世田谷パブリックシアター
6月
『薬をもらいにいく薬』@こまばアゴラ劇場
不思議の国のアリス』@新国立劇場オペラパレス
『器』@こまばアゴラ劇場
『てなもんや三文オペラ』@PARCO劇場
7月
『導かれるように間違う』@彩の国さいたま芸術劇場 小ホール
8月
『帰還不能点』@東京芸術劇場シアターイース
9月
『Dance Speaks ウェスタン・シンフォニー/緑のテーブル』@神奈川県民ホール
『夜の女たち』@KAAT ホール
『天の敵』@本多劇場
11月
『建築家とアッシリア皇帝』@シアタートラム
12月
歌わせたい男たち』@びわ湖ホール 中ホール
『吉例顔見世興行 第三部』@南座
『ツダマンの世界』@ロームシアター メインホール
ハリー・ポッターと呪いの子』@赤坂ACTシアター

映像・配信
4月
桜姫東文章 上の巻』(シネマ歌舞伎)
桜姫東文章 下の巻』(シネマ歌舞伎)
5月 
『ザ・空気 ver.3』(配信)
7月
『リーマン・トリロジー』(NTL)
8月
『月光露針路日本 風雲児たち』(シネマ歌舞伎)
『プライマ・フェイシィ』(NTL)
10月
『ストレイト・ライン・クレイジー』(NTL)

というわけで、劇場では20作品21本、映像入れると26作品28本でした。
観劇する人からすると少ない、観劇にあまり行かない人からすると多い、という具合でしょうか。まぁこんなペースで来年もやってゆきます。仕事の都合で行けなかったものもちらほらあったので、来年は少し落ち着くといいな……。

年間ベストを出すほど見ていませんが、良かったもの。
エンタメとしては『お勢、断行』『不思議の国のアリス』『ツダマンの世界』が面白かったです。中でも『不思議の国のアリス』は断トツでクオリティーが高かった。『建築家とアッシリア皇帝』もめちゃくちゃ楽しかったけど、ザ・エンタメ!ってかんじではない(ツダマンも下ネタが多いが……)。
試みとしては『冒険者たち』というかカナガワ・ツアー・プロジェクトの存在は嬉しく。また作品ではないが、芸術監督公開トークシリーズも興味深かった。どちらも来年以降続くようなので楽しみです。公共と劇場、社会と演劇について。あと『TOUCH -ふれる-』。観客が自由な場所から自由な体勢でみれて、また美術が途中動くので、観客も演者を観るには動かなければならない、という鑑賞のしかたは面白かった。

今年は意識してあまり見ていないジャンルに突撃しにいったのですが、それも楽しかったです。来年はミュージカルをまた観たり、オペラを観に行ったりしたいですね。とりあえず、仕事落ち着いて……。そして感染症収まって……。

『ハリー・ポッターと呪いの子』

会場:TBS赤坂ACTシアター
上演時間:3時間40分(途中休憩20分)


ハリー・ポッターは原作本を謎のプリンスまで読んだ気がする、映画を不死鳥の騎士団まで観た気がする、というレベル。演出効果が良いと聞いたので観に行くことにした。一応話にはついていけた。


ざっくりと、タイムトラベルもの、そして例によって過去の改変による悪影響が起こるため、元に戻すまでの冒険譚である。
人間ドラマとしては、親と子の関係、友達の大切さ、自らの周辺に起こる理不尽な死への向き合いについて語られる。

ハリー・ポッターに息子、アルバス・セブルス・ポッターがおり、彼がホグワーツへ入学するところから話は始まる。ハリーは父親としての振る舞いが分からず、アルバスに対して愛情を上手く示せないでいる。対してアルバスは父親が有名人であることから日頃からいらぬ注目を浴びていて、父親のことを少し疎ましく思っている。
アルバスはホグワーツ特急の中で一人ぼっちでいる同級生と出会う。彼はスコーピウス・マルフォイといって、ドラコ・マルフォイの息子である。アルバスと同様に有名人の父を持つ苦悩を持っており、またドラコがヴォルデモート卿の配下にあったこともあって、出生に関してひどい噂を立てられ孤立している。
アルバスはスリザリンに組分けられ、あまり魔術の才もなかったことから、ホグワーツで孤立していく。そんな中で、同じような境遇にあるスコーピウス(彼もスリザリンである)がアルバスの良き友人となる。
ある日、アルバスは父に連れられてディゴリー家を訪れる。ディゴリー家は三大魔法学校対抗試合の最中、ハリー・ポッターとヴォルデモートの戦いに巻き込まれて亡くなった、セドリック・ディゴリー出生の家である。セドリックの父、エイモスは全て破壊されたはずのタイムターナー(過去に戻ることが出来る)の一つが発見されたことを聞きつけ、ハリーに過去に戻ってセドリックを助けるよう懇願する。しかし、ハリーはタイムターナーの噂を否定し、その願いを断る。
それを聞いていたアルバスは、セドリックを救おうと計画する。父のせいで理不尽な出来事に巻き込まれ、犠牲になった者に共感するところがあり、また同時に罪を負った父を救いたいとも考えたからだ。アルバスはスコーピウス、そしてエイモスの介護をするデルフィーと共に、冒険へと踏み出す……。


ハリー・ポッターファンに向けた作品、かつダイジェスト版というかんじ。

全7巻にて語られる壮大なスケールの物語のイメージで臨むと、どうにも小さい印象。ハラハラドキドキ、みたいなのはあまりなかった。
メタな理由としては、ヴォルデモートとの大きな戦いも終わっているし、上演時間も長いけどゆうてこの時間内に解決するんだ、と思ってしまったこと。
物語としては、ハリー・ポッターは子供たちが主役だったのに対して、呪いの子は親子が主役である、というのがある。ハリー・ポッターでも大人が手を貸すことはままあったが、呪いの子はアルバス・スコーピウスに何かあってもまぁハリーたちが助けてくれるんだろうな、みたいな気の抜け方があった。

ダイジェスト、というのはこの作品の上演のされ方にある。ロンドン他ではこの作品は2部作として上演されている。第1部は2時間40分(内休憩20分)、第2部は2時間35分(内休憩20分)。しかし、東京での上演は2021年に出来た短縮ver.で、上演時間でいえは4時間35分の作品を、3時間20分で上演している。1時間15分の短縮だ。そしてそれをシーンのカットでなく、セリフを高速で言うことで解決しているシーンが多々見受けられる。正直言ってかなり無理があった。

こうしたところからストーリーやドラマ部分が薄くなり、ハリー・ポッターキャラが現れるのと魔法の演出を楽しむ作品に終わってしまった。アトラクションとかショーに近い。


シリーズ完結後の作品と言うことで、主役でない者たちへのまなざしを意識したのは良かった。そんな物語で、途中スコーピウスがほとんど主役のようになるのは面白かった。
役者は嘆きのマートルを演じた美山加恋が良かった。スコーピウスを演じた門田宗大も良い。アルバスはラストシーン、夢を冗談めいて語るところが良かった。ただ全体には、怒ったような調子で大声で喋るばかりの役者が多いのが気になった。これは役者にも原因はあるが、脚本と時間の制約のせいもあるだろう。
魔法の演出は概ね楽しく観れた。特に電話ボックスが好みだった。ダンブルドア肖像画のシーンは、いかにも踏み台なのでスロープにしてあげて欲しい。

客席は演劇を見慣れていない人が多く、観劇マナーはあまり良くはなかったが、集中して観る作品でもないので別に怒ることじゃないと思う。着信音については、改修期間もあったわけだし、携帯電話抑止装置つけりゃ良かったのに、と。
あとどうしても、J・K・ローリングがトランス差別をしたのが頭にちらついてしまい楽しみきれなかったのは残念だった。

『ツダマンの世界』

会場:ロームシアター京都 メインホール
作・演出:松尾スズキ
上演時間:3時間30分(途中20分の休憩あり)


滋賀・京都観劇旅行第三弾。
東京公演は激務その他につき都合がつかず、唯一確実に行けそうな日が初日で当然にチケットがとれない。京都も久々行きたいし…ということで。


津田万治という小説家の半生。物語は津田家の女中の案内で進む。昭和初期から戦後。女に振り回され、また振り回しつつ、文学…というより文化的な栄誉に執着する男の話だ。

非常にテンポが良い。役者の力量もあるし、一シーンが短く、またシーンが変わる際に美術も大きく変わるので、飽きがない。場転もブレヒト幕を多用したり結構な大きさのセットが滑らかに移動したりしていて、見ていて楽しい。
そうして笑ってテンポ良く進んで終わる。戦中戦後の文豪の話だ……、と重ために挑むと肩透かしを食らう。基本的には人間の愚かな、けれどたくましい様を見て笑って楽しむ芝居だ。

そんな中でも印象に残ったのは、芯があるか、という件だ。ツダマンは戦中、中国大陸において戦意喪失のためのビラの文章を書くよう指示される。そこで彼はこう記す。「お前たちが反撃しても日本は必ず勝つ。なぜなら日本には天皇という芯がある。お前たちにはそれがない。だから負ける。」(大意。文章まで覚えてない)
しかし、ツダマンはノンポリで、作中でも自らノンポリであると度々言っている。ついでにツダマンの周囲には女が何人かいるがその誰のことも好きなわけではない。強いていうなら死んだ継母の面影を追っている。
そんなツダマンから、だからこそなのか、上記の文句が出てくるのが面白い。芯のない者でも何かを信じているかのような文章を書ける。お前の信じてるそれは本当にお前にとっての芯なのか? そう自らに言い聞かせてるだけじゃないか?


というわけで概ね楽しんだ。
最後急にツダマンという男の話から女の話になるのは、ちょっと取って付けたようで違和感があった。女中の告白は面白いしツダマンの妻の思いが最後爆発するのも、そしてそれらを無視して踊るツダマンという画もいいのだが、であれば劇中もう少し妻の存在(ツダマンの幻想としての女性でなく)を大きく出した方が良いのかもしれない。

冒頭、三人の幽霊のシーンがとても美しく、これからの期待がグッと高まった。客席を使った映像効果も楽しく良かった。
あと自分は江口のりこ好きなので、煎餅で人の頭をジャンプして叩くとことか葉蔵の世話係の上に乗っかってぐりぐりするとことかすんごい可愛かったね、というのを書き留めておく。


最後に、東京公演におけるチケットの取れなさについて……。いや、私が取れなかったのは初日一択だったからでこれは別に仕方がない。ただ様子をみるに、人気俳優のファンに向けたチケットの割合が多すぎる。せめて枚数制限つけてくれ。通いを増やすより実質の観劇者数増やしてください。人気俳優の出演は観客の裾野広げられるチャンスなので、ファンの集いになっちゃいかんだろう。

『當る卯歳 吉例顔見世興行 第三部』

会場:南座
演目:『年増』『女殺油地獄
上演時間:2時間30分(幕間25分含む)

滋賀・京都観劇旅行第二弾。
行ってみたかった南座へ。歌舞伎を劇場で観るのは数年ぶりで、2度目。

『年増』
女の一人踊り。台詞はあまりない。
私には言葉が難しくて分からなかったのだが、動きが美しく、観続けることができた。

女殺油地獄
全三幕。
第一幕。野崎参り、道中でのドタバタ。与兵衛の善人ではないが愛らしい様、お吉のぴしっとしているが情がある所をみせる。
第二幕。河内屋。与兵衛が勘当されるまで。
第三幕。豊嶋屋。お吉のもとを与兵衛の義理父、母がそれぞれ訪れる。与兵衛がお吉を頼るだろうから、その時に名前を出さず渡してくれと金をお吉に渡す。
二人が去ったあと、与兵衛はお吉のもとを訪ねる。陰からその様子を聞いていたのだ。与兵衛はこれでは金が足りぬとお吉に無心する。しかしお吉は主人がいないのにそんなことは出来ないと断る。与兵衛はその頑なな様子に怒りを覚え、殺しにかかる。

楽しかった。
花道での芝居は単純に盛り上がって楽しい。第一幕でわちゃわちゃしてるとこに馬が出てくるとこなんかも。殺しのシーンで倒れる様も無様だが芸としてきまっている。
愛之助は与兵衛の幼さをよく表現していた。お吉、母、義理父も良かった。妹可愛い(演:千之助)。義太夫節(たぶん)も重たく迫力あって素晴らしかった。

クリスマスイブに観るにおよそ相応しくないなと思っていたが、義とか礼を重んじつつも、それを超える親の愛情の話でもあった。そしてそれを感じつつもわがままに突き抜けていく主人公……。
久々の歌舞伎。幕間のにぎわい含め、面白かったです。

『歌わせたい男たち』

会場:びわ湖ホール 中ホール
作:永井愛(二兎社公演)
上演時間:1時間45分(終演後永井愛のトークあり)


滋賀・京都観劇旅行第一弾。
『ザ・空気 ver.3』を映像で見たのみでずっと気になっていた二兎社を観れて嬉しい。東京公演は激務その他につき行けず、日程よく琵琶湖も見たかったので滋賀にて観た。

舞台は都立高校。国歌の不起立を巡る、卒業式の朝の騒動。
主人公の音楽教師、仲ミチルは卒業式のピアノ伴奏を頼まれ気が重い。というのも、元はシャンソン歌手で音大卒業以来ピアノにあまり触れていないからだ。連日の練習による過労でめまいをおこして服にお茶をこぼしてしまい、保健室のベットにいる。
そこに偶然校長が入ってくる。校長はやたら仲に気を遣う、というか国歌に対する仲の心情を気にする。仲の前任が国歌の伴奏に抵抗を示し、ついに辞めてしまったからだ。
その後、仲と親しい社会科教師、拝島も保健室を訪れる。仲はめまいの中落としてしまったコンタクトレンズの代わりに拝島の眼鏡を借りようとするが、拝島は国歌斉唱への反対を理由に断る。
そこに教師生徒全員の国歌斉唱を推進する同僚片桐や噂好きの養護教諭按部、そして校長が加わりてんやわんや。さらに昨年まで勤めていた国歌斉唱反対派の桜庭(登場しない)がビラを撒き始め、学校全体を巻き込む騒動に……。

面白かった。
自分の信念と異なる行動をせざるを得ないとき、予め決まった結論に向けて文章の読み解き方・理解の仕方をねじまげていく様とか。国歌斉唱に向けた説得は、国歌斉唱そのものについてでなく、それをしなかったことによる規律の乱れ・他人への迷惑が強調されることとか。
そういう、政治と思惑と人間の弱さについての話も面白かったし、単純に演技の上手い人たちがドタバタ騒ぎをしているのを観るのは楽しい。
俳優は特にキムラ緑子が良かった。テレビではあまり観れない、ふわふわっとした喋り方がよくあっていた。

拝島の反応として「笑う」というのがいささか多いのが気になった。ワンパターン過ぎないかと思ったが、もしかしたら意図的なのかもしれない。
昨年不起立だった在日韓国人の生徒の扱いも気になった。少なくともヨン様の真似をしたところで高校生はときめかないのではないか。

終演後にあったトークで、内心の自由と演劇に関する話がちらりと出たのは興味深かった。
私が演劇に限らず劇場にいて心地が良いのは、即発言をすること、を基本的に誰も求められないからだ。発言をする場、というのはどうしても権力関係だったり、場の流れに合わせろという圧力だったりが生まれてしまいがちだ。あまり自身の内心とは向き合えていない気がする。
しかし劇場における発言はじっくり練られた言葉であることがほとんどで、それに対し暗い客席で一人頭をぐるぐる動かして反応できる。そして、だからといって完全に一人ではない。役者がいて、周りの観客がいて、その反応を見ることもできる。
内心は頭の中にあることばによって作られる。安心できる場所で様々な情報を吟味して自分の感情と打ち合わせ、やっと出てくることばこそが、力から離れた、より自由な内心なんじゃないかと思う。劇場はそういう内心の自由を育てあげる場の1つで、そういう訓練を重ねることで、日頃の行動における内心の自由も守られていくんじゃないか。みたいなことを考えたり。

『建築家とアッシリア皇帝』

会場:シアタートラム
作:フェルナンド・アラバール 演出:生田みゆき
出演:岡本健一、成河
上演時間:2時間50分(休憩1回、ただし舞台上パフォーマンスあり)


※ネタバレと解釈が入ります。観に行く予定のある方は読まないで下さい。


孤島に現れた男(アッシリア皇帝と名乗る)と先住する男(建築家と名付けられる)とのやりとり。
一幕では二人のやりとりの中から「建築家」が何者であるかが示唆される。二幕は「皇帝」の過去の罪を探る裁判ごっこの様子がメインだ。

全体に、演劇であることが強く意識される。
特に成河演じる建築家は、演劇の子のようである。ないものを出現させ、舞台装置を動かし、照明もあやつる。あげくのはてに照明作業用のゴンドラに乗って出てくる(めちゃくちゃ面白かった)。
対する皇帝は役者、あるいは役割を演じる市井の人のようだ。
この二人のエチュードのようなものが第一幕では何度も繰り返される。第二幕は裁判所のシチュエーションがメインになるが、裁判の演劇的要素を意識するような台詞があり、やはりエチュード的である。ラストは役者が入れ替わり、冒頭のシーンが繰り返されて終わる。演劇は一度上演を終えても繰り返しまた初めから上演されるのだ。かといって過去に戻るわけではない。

次に意識されるのが、母親そして性欲だ。
第一幕のエチュードには性欲に関係する言葉や行為が何度も出現する。テーマとして深掘りされるのは第一幕ラストから第二幕中盤にかけてだ。皇帝は母親に対して強い愛憎の念を抱いている。そして母殺しの罪を負っている。第一幕後半の皇帝の一人芝居や第二幕の裁判およびその後の語りでそれが示される。
母からの愛、性愛とは無縁のようにみえる愛情を受けて育った。しかし母親もまた性愛を抱く存在で、しかも自分自身がその結果今ここに存在しているのだ、という気持ち悪さ。母親という存在はまるで、見えないところにガーターベルトを身に付けた修道女のよう。

最後に、戦争の存在がある。
多数のごっこ遊び、例えば「皇帝」が皇帝らしく振る舞うことは、人間は皆同じ人間であり役割に応じて自分の行動を決めているにすぎないことを見せる。戦争は、もし役割が変われば味方同士だったかもしれない人間を殺すことなのだ。


と、ごちゃごちゃ書いたが、二人のやりとりや舞台の仕掛けが単純に面白い。何ですかその動き、とか、あっそこから出てこれるの!とか。
成河はものすごく楽しそうに生き生きと舞台を動き回る。岡本健一は表情が良い。様々なごっこ遊びをしても、尊大で臆病でひねくれて他者からの愛を求める人物が常にいる。
美術も好みだった。薄い幕の金糸、かわいい。ふにゃふにゃの壁とそこにグラフィティがあるのも良い。

強いて言うなら、一人芝居部分が二人芝居部分と比べどうしても見劣りしてしまう、のに長尺なのが気になった。がその間ぐるぐる上記のようなことを考えられたのでいいのか。

演劇面白い!となる作品でした。見れてよかった。

『夜の女たち』

会場:KAAT ホール
作・演出:長塚圭史 音楽:荻野清子
上演時間:2時間45分(休憩1回、20分あり)


戦後すぐの大阪。貧困の中、様々な理由で時に犯罪に手を染めながらも生き抜こうとする人々を描く。
原作は溝口健二による映画『夜の女たち』(1948)。これは当時の現地で撮影され、それゆえフィクションだがドキュメンタリーのようにもみえるらしい。

さて本作は新作ミュージカルである。
そして長塚圭史はミュージカルの演出が初。主役級の役者もミュージカル未経験者が揃った。主演にいたっては歌っているイメージすらない。
発表当初から不安な演目で、コメント・インタビューが出てくる度にそれが増大した。歌が上手くないことをネタにするような発言をするな、その態度で客を取ろうとするな、と何度も思った。
でも観に行ったのはなぜか。芸術監督:長塚圭史のKAATが面白いのと江口のりこが好きだからです。えぇ、ミーハーだよ。ちょろい客だよ。

ざっくりとした感想としては、思ったほど悪くはなかったが人に勧められるものではない、というところ。

長塚圭史は、この題材をミュージカルにした理由を「勉強のような作品になってはいけない」から、またミュージカル未経験者を起用した理由を「未開の領域へ触れるパワーが作品の核心に近づくものになるだろうと考えたから」としている。
前者は成功しているかもしれないが、後者はかなり微妙だと思う。というのもやはり、役者の歌が悪いからだ。いくらパワーがあろうが、音があまりに外れてしまうと客としては心が離れる。

中でも江口のりこ福田転球が良くない。
江口のりこは難しいメロディーになるとすぐ音がずれる。これに加え、話し言葉の声質と歌声の声質が合っていないのが辛い。歌が話から浮いている。高音をきれいな声で出すので、であれば話し言葉をもう少しはっきりきれいに出すべきだ。比較的低音だったり感情優先で声が荒れると聞けるので、そういうナンバーの多い後半はまだ聴けた。
福田転球は何が原因かよく分からないが、先の『てなもんや三文オペラ』の方が歌と演技とシーンが合致していた。声質的に、本人も相手方も大げさに動いてくれるといいのかもしれない。

おそらく、長塚圭史は無様な人間を舞台上に出現させるのが好きなのだと思う。それはいい。今回はそれを、歌に慣れていない人が無理やり歌うことで表現しようとしたのだろう。「未開の領域へ触れるパワーが作品の核心に近づく」だ。素晴らしい歌の鑑賞会になっちゃいけない。ただ、優れたミュージカル俳優というのはそういう演出意図をくんで演技するものだと思うし、そういう演技に導くのが演出家の仕事じゃないのか。以前みた『Dreamgirls』の「It's All Over~And I Am Telling You I'm Not Going」とかそのあたり見事に合致していた。

シーンとしては、院長と教育婦人の場面が気になった。院長(北村有起哉)が突如として説明セリフを長々喋り出すのも気になるし、教育婦人がいかにもな"フェミニストおばさん"でつまらない。しかもこれが、自戒に見せかけたマンスプレイニング的なシーンになっており非常に嫌な気持ちになった。

音楽は概ね良かった。特に複数のナンバーを組み合わせたような曲は巧みで面白い。
ミュージカル未経験者だと前田旺志郎が良かったが、これは意外性によるものかもしれない。上手くはないのだけど、自分の声で場をよく掴んでいた。場数を踏めばもっと伸びると思う。女役のシーンを面白にせず誠実に演じるのも好ましい。
美術・照明はクールで、特に壁面の表現が良かった。