観劇記録であるとか

タイトルの通り。

『さいごの1つ前』

会場:逗子文化プラザ なぎさホール
作・演出:松井周
上演時間:85分(休憩なし)


KAATキッズ・プログラムの演目の1つで、2022年にも上演された作品の再演。
国内各所に加え、県内ツアーもあるということで、最も家から近い会場である逗子文化プラザでみた。ありがたいことです。

この世でないどこか。集められた3人は案内人の導きで地獄に連れて行かれるらしい。その道中。

とても良かった。
ほんとに。

何より空気が良かった。
開場中、ロビーではガチャガチャの案内をしている。場内のしきりに雲やキャラクターの装飾がついている。客席は照明によって染められ、天井や壁には星やドットの柄が映し出されいる。そしてハワイアンミュージックだろうか、のんびりした音楽が流れている。(これがまた逗子という土地に合っている!)
こういうね、大人たちの子どもを楽しませてやろうという気概で満ちた空気がもうとても良くて、開場中からそのあたたかさに泣きそうになった。

もちろん本編も良い。
死んだ後はどこに行くの?そのためにはどう生きるの?というお話で、普段考えないけれど重たくなりすぎないテーマでよい。
その中で、地獄が決して悪いイメージでないのが面白い。(個人的には、RINA SAWAYAMAの「もしクィアな人たちがみんな地獄に行くなら、楽しそう。パーティーみたい。」(ハフポストTikTokより)といった発言を思い出した。) 序盤にある、ワークショップでこどもたちが作った作品を用いて行われる「これが地獄の最新事情!」のコーナーも朗らかで楽しい。「最新事情!」ということばも可笑しくて好きだ。
成功や名声が天国に行くための「最高の思い出」とされない、というのはいかにもキッズプログラム的で、幸せは人それぞれだし成功したら嬉しいじゃん、なんて思って見ていたが、もしかしたらみんなで仲良く笑い合って暮らす天国にはそういう思い出を「最高」のものとされるのは都合が悪いのかもしれないと思ったり。

キャラクターも魅力的。
演者もいいし、それを衣装・ヘアメイクが引き立てている。
白石加代子は観客を引き込むのが巧みだ。観客とのコミュニケーションも、しっかり観客の反応を受け止めた上で反応していた。その時の楽しく話せるおばちゃん感も、役における可愛らしい少女のような振る舞いも、時折出る凄みも分裂せず説得力がある。
あとミチロウ(演:薬丸翔)という、大企業の経営者だったキャラクターがいて、いいキャラなんですよ。偉そうなのに全部さらけ出してて。ミチロウが歌う「ミーチ、ミッチミッチ、ミチロウです、よいしょ!」というキャッチが、こどもたちに大ウケだったことは書き記しておきたい。

演出も楽しく。白石加代子の胎内から惑星がいくつも飛び出してくるとことか、何これ?と思わせる演出もいくつか。みんなでよく分からないものに出会うっていいですよね。
個人的にはびよーんと伸びる糸電話が可愛くて好き。それを追っかけるアキオ(演:久保井研)の様子も可愛い。

話は最後白石加代子リスペクトの方向へ向かっていく。皆で年齢を重ねた人をニコニコと楽しく見送るあの場のあたたかさ! かなしみを抱えながら人を入れ替えて進んでいくこの世を思った。


客入りはホールの半分以下なので200名にみたないくらいというところか。子ども連れが多め。
逗子のような都心部へのアクセスが良いところは、プロの芸術に触れるなら都心出ちゃうんで難しいと聞いたことがあるけど、この人数は主催者の想定からみてどうだったんだろうか。
同じ街で暮らす人たちが(もちろんそうでない人も)集まって一緒に笑って共にいる、という経験はいいものだと思うんだ。仲良くはならなくても、同じ時間を楽しんだということで、分かりあえるかも、少なくとも一緒に生きていけるかもと思える。まぁでもそういう場は劇場に限らないし、逗子だと海岸とかありますし。
劇場の機能を特別視するのは自分は嫌なのですが(だって演劇観ないけど素敵な人はたくさんいるじゃないですか)、その上で劇場の機能とは何だろうと考える昨今。

とにかく良い場だった。行けて良かった。

音楽劇『ある馬の物語』

会場:世田谷パブリックシアター
原作:レフ・トルストイ
演出:白井晃
上演時間:2時間25分(第一幕75分、休憩20分、第二幕50分)


トルストイの小説『ホルストメール』を音楽劇としたもの。
観ていて楽しかったが、テーマや演出意図が散漫してしまった印象をうけた。

美術は工事現場さながらだ。劇は、ヘルメットをつけた作業員たちが仕事を始める様子から始まる。ある1人の男(演:成河)が足場の一番上へと登るが、彼はそこから落下してしまう。そして巧みに男はまだら馬へと変わり、舞台は19世紀ロシアの、馬と人間たちの物語へと移行する。
このシーンは原作になく、演出によるものだ。使役され捨てられる馬たちと労働者を重ね、現代へとつなげる場面として作られている。しかし、あまり効果がない。
というのも、この後馬を模した身体表現であるとか、視覚的に魅せる踊りや演出が続くので、馬たちがすなわち労働者、市井の人であることを忘れてしまう。
これに加え、ラストシーンだ。
ラスト、ホルストメールを演じた成河はまだらを示すメイクを取って、公爵を演じた別所哲也はつけ髭を外して、それぞれの役のその後、そして死について語る。このシーンは本上演にあたり付け加えたものではない。ここで、成河はホルストメールを演じた役者として語る。冒頭の作業員を演じた役者ではない。またこのシーンにより、この物語がホルストメール(馬)と公爵(人間)の物語であることが強調され、いよいよ冒頭の作業員の印象が薄くなる。
もちろん、落下のシーンがワイヤーを使った印象的な絵なのもあって、後から客はあれ何だったんだろうと思い返すし、そこで現実と接続されるのたが、1つの作品としてはいささか浮いていると思った。

このラストシーンの台詞。公爵は棺に入り埋められたが人々から忘れ去られ、ホルストメールは打ち捨てられたが、肉は食べられ骨は道具として用いられ最後まで"役に立った" と語られる。
全体の雰囲気として、馬の方が優れていると言いたげなのだが、ホルストメールは使役動物として死後に至るまで使われ役立てられたという話で残酷だし、棺に入れられ静かに眠った公爵は、人生の最後に名声などといったものから離れ、世の中にある種使われた人生からやっと抜け出せて良かったじゃないかくらいに思った。自然に還れない、次に繋げない哀しみはあれど。

そもそも、ホルストメールはそんなに善人(馬)ではない。彼自身、女を自分のものにしようと/所有しようとして、雌馬をレイプしている。また公爵に所有される喜びを語っている。彼もまた、誉められるだけでない、悪いところも愚かなところも持ち合わせた生き物なのだ。
しかしここは宣伝が良くなかった。「愚かな人間と聡明な馬とを対比させ~」(世田パブHPより)と、人間対馬の構図が強調されてしまった。これを前提に劇に臨むと、馬に人間(労働者)を重ねる演出意図とは食い違ってしまう。

というかんじで、馬を馬として見せたいのか、馬を人間と重ね合わせて見せたいのか、どっちつかずのまま提示された印象を受けた。答えを明確にすることが常に良いこととは限らないが、どう見せたいかについては少し整えてもいいんじゃないか。その上で客はそれぞれの立場で受け止めをするから。


音楽は非常に好きだった。
色々書いたが、ワイヤー等を用いた大きな動きも馬の表現もかなり楽しんだ。馬の表現は、成河がやはり素晴らしかった。蝶を追っかけるとことか可愛いですね(ファンの感想)。音月桂も優雅なそれが上手い。
別所哲也演じる公爵のことも結構好きだった。観客席を割に使う演出なのだが、劇中明確に観客へ視線を向けるのは公爵くらいだ。それが相手から一目置かれることを望んだ公爵らしく、愛らしかった。

『クレイジー・フォー・ユー』

会場:KAAT ホール
企画・製作:四季株式会社
上演時間:3時間(第一幕85分、休憩20分、第二幕75分)


ガーシュウィンの音楽を用いたミュージカル・コメディ。劇団四季としては8年ぶりの上演である。

銀行の跡取り息子であるボビーは家業に興味を持てず、ダンスに夢中だ。ショー・プロデューサー、ザングラーに自分のダンスを日々アピールするが相手にされていない。
ある日、母からの命で砂漠の町にある劇場の差し押さえへ向かう。かつて金で栄えたその町も今は廃れており、劇場でも上演は行われていない。
ボビーは劇場オーナーの娘であるポリーに惚れ、共に劇場再建を目指そうとする。しかしポリーは銀行の人間であるボビーのことを信頼しない。そこでボビーはザングラーに変装し、ショーの上演へと奔走する。その過程、ポリーはザングラー(偽)に惚れてしまい……。


初の劇団四季。久々のミュージカル観劇なこともありかなり楽しみにしていたのだが、嫌な気持ちで帰ることになった。

まずもともとの作品に対してだが、終わり方がいまいちだと思った。
町の人々とショーを作り上げ、お客も入り、ポリーとも結ばれて大団円! なシーンのはずなのだが盛り上がりにかける。メインは白い衣装をまとった主役二人のデュエット・ダンスであり、その後ろではきらびやかな衣装を着た女性ダンサーたち(ボビーがニューヨークから連れてきた)がポーズを決めて立っている。そこだけ見れば華やかでロマンチックで素敵な場面だ。しかし、それまで町の人々と共にその場にあるもので創意工夫をして作りあげるワクワクするようなナンバーをやってきたのに、最後になってニューヨーク仕込みの綺麗なそれで終わってしまうのはつまらない。一応、この後にも全員登場して行うフィナーレはあるのだが、舞台後方高段でポーズを決めるダンサーは場面の飾りとしての役割を果たすばかりで、全員で盛り上がるかんじではない。
これまで登場人物たちが、そして観客である私たちが楽しんできたものがあまり反映されないラストシーンで、急に放り出されたような感覚をおぼえた。


次に演出について。
まず、冒頭のオーバーチュアに大変がっかりした。録音なのはいい。仕方がない。しかしあれは長すぎる。生オケならあの長さでも楽しめたろうが、録音で長々やられても初見の観客には退屈だ。

そして何よりがっかりした、というより嫌な気持ちになったのは、セクシュアル・ハラスメントになるような事象がギャグとして取り扱われていることだ。
一番ひどいのは、女性ダンサーが町の男たちにダンスを教えるシーン。胸に手をあてる振付を指示した瞬間、男たちがダンサーに寄ってきてダンサーの胸を触ろうとする。ダンサーは当然嫌そうにしている。そしてこれが天丼ギャグとして繰り返される。まじかよ。面白くねーよ。
他にも、女性ダンサーの楽屋を男たちがのぞいて、ダンサーたちがキャーと叫ぶシーンがあったりする。叫ぶだけで誰もちゃんと怒らない。
自分がこの作品を見に行った理由の1つは、プロモーションVTRにおいてヒロイン、ポリーが物事を臆せずはっきり言う女性として描かれているのに惹かれたからだ。それでこんなシーンを見させられるとは思わなかった。ついでに、周りが結構笑っているのにも、そして終演後ほぼ全員がスタンディングオベーションだったのにもまぁ傷ついた。そうですか。


というわけで初めての劇団四季。セリフの発話は独特だが主役級は演技が上手いし、皆一定歌えるし、身体能力のある人がかなりいるしでパフォーマンスそれ自体は想定を超えて楽しめたのだが、上演条件に合わせた工夫や今ここで上演するうえでの作品への批評的な目があまりないようにみえた。
今後一切観たくないとまでは思わないが(終演直後はよぎったけど)、新作の輸入物か、色恋の要素が少ない演目でない限り観に行きたくはないな、と思った。

ストレンジシード静岡2023

5月4日(木・祝)にストレンジシード静岡の演目をいくつか観た。

10:30~ お寿司『怪獣回しし』@芝生
猿回しの怪獣版。
開場中、怪獣回し師は怪獣ショーで使われるような音楽(うなり声とか入るが陽気なやつ)を流しながら、呼び込みをしている。楽しげな雰囲気で怪獣回しが始まるが、怪獣は芸を上手く出来ず、また回し師もそれを責めるため最悪な空気になる。最後は何故か全身タイツのペガサスと馬が登場し、馬が公園内を走り回って終劇。
怪獣回し部分は、演出家と俳優の間に起こりがちなハラスメントについてポップに批判をした。ただホントに空気が最悪なので観ていてヒヤヒヤした。前提を共有していない観客(どんな団体か分からない、途中から観始める人もいる)の多いストリートシアターでやることかは微妙。遠巻きに見る分には何か面白い格好の人たちが変なことやってる! で終わるのだろうが。あと灰皿は擦られすぎだと思う。
無茶苦茶なラストシーン、俳優が「演劇、楽しいよ! 一度やってみるといいよ!」と呼びかけていたのが良かった。演劇フェスの始まりに適した作品だった。

11:00~ 『χορός/コロス』@フェスティバルgarden
70名近い出演者による人類史。
一部のシーンでメインキャストを担う者はいるが、基本的には群衆の様子を描いている。
集団での表現の仕方は上手いし、枕の中の羽毛が舞うシーン等ハッとするほど美しい箇所もあるし、皆が空を見上げるシーンで鳥が飛ぶなど野外公演ならではの奇跡みたいなシーンはあるしで、パフォーマンスとしては良かった。しかし描いている内容はかなり表層的なもので、またデフォルメが過剰な印象をうけた。さすがに倒れた人を写真に取る野次馬はあんなにはいないだろう。

12:00~  安住の地『わたしが土に還るまで』@芝生 (ダンサー:森脇康貴の回)
踊りで表現する九相図。人が死んで、土に還るまで。
芝生にて、観客は演者を取り囲むようにして座る。演者の案内で立ち上がって軽くストレッチ。アクティングエリアが解説された後、雑談のように思い出が語られ、それが九相図への導入になっていく。演者の他にもう一人いてその人が語りを担い、演者は踊りを始める。
非常に良かった。新緑に囲まれ、光はきれいで、土の匂いをかぎながら、死にゆく時、強烈に生があらわれ、そして死は生の、自然の営みの中の1つなのだと感じさせられた。
また野外ならではの奇跡的な瞬間がいくつかあった。雨が降ると言ったシーンだったか、風が吹いて木から殻だろうか小さい部分がいくつも落ちてきて背中にあたり、またそれが光に照らされて輝いて演者に降り注いで。ものすごく美しい瞬間だった。


13:00~  ダンスカンパニーデペイズマン『ギガ超獣ギガ』@大階段
兎・狐・蛙の3匹etc. による生命讃歌。いや、踊りか。
動きは楽しく衣装も可愛く、小道具も面白い。見ていてずっとワクワクしていた。表情も巧みだ。やたら環境団体をネタにするのは気になったが。
音に拘りがあるらしく、市役所前の車も人も結構行き交う場所にしては音が大きめ。他と違って偶然による奇跡は起きにくい会場だが、音の存在感によって「ストリートシアター」フェスの「ストレンジシード」としての機能を果たしていた。


14:20~  マームとジプシー『equal/break-fast』@芝生
ある朝、ある瞬間。別々の場所にいる5人が同じ場所にいた時のことを思い出したりしながら、それぞれに同じ時を刻む。
初めてのマームとジプシーだったのと、来年公演予定の作品のクリエイション/導入部として観てしまったので、ふーん、こんな感じなんだ、みたいなちょっと熱のない目でみてしまった。もしかしたら苦手なのかもしれない。あるいは周りの観客や遊歩道が明るく見えるのが、この演出にあわないと思ってしまったのかもしれない。
ただやはり、野外ならではの奇跡、というのはあって、別々の場所にいて同じ時を共に生きていることが強く意識される終盤のシーンで、さーっと風が吹き抜けていったのは美しかった。あれは観れて良かった。


途中までだが、エンニュイとDANCE PJ REVO の作品も観た。会場はどちらも遊具などのある児童公園だ。
エンニュイは本当に冒頭のみ。演者は児童公園にかなり溶け込んでいたが、一方にずらっと並べられたパイプ椅子および観覧スペースがそれを台無しにしてしまっていた。
DANCE PJ REVO は公園に現れる違和として、静かに始まった。演者は黒ずくめで喋らずテキパキと動く。次第に段ボールが高く積み上がり、そしてそれが崩れる時の動きの意味を観客に問わせる。ただ、ケタケタ笑う子供たちがいることで、意図を読もうとするばかりじゃなく、動きの単純な面白さにも気づく。意外に演者も子供たちに絡むので(遠くにいった段ボールを投げてもらったり)、カタいんだかユルいんだかよく分からない不思議な空間になっていた。


以上。
宿を修善寺に取っていたので(せっかくのGW、観光旅行もしたかった)、夕方のは観れずに終わった。ただそれでもかなり楽しめた。
「ストレンジ」には、普段の街に奇妙な存在が現れるというのもあるが、観劇を目的として来た人にとっては、劇場では入り込むことのない、通行人・車・自然の動き等が見慣れない(ストレンジ)ものとして存在する、というのもあった。
静岡があまり遠くないのも分かったし、是非また行きたい。旅程を詰め込みバタバタしたので、次回はもうちょっとゆっくりと。お茶味わって飲むとか。

『XXLレオタードとアナスイの手鏡』

会場:静岡芸術劇場
製作:シアター・カンパニー・ドルパ
上演時間:1時間30分、休憩なし


ふじのくに⇄せかい演劇祭の演目で、韓国のカンパニーによる公演。
登場人物は、受験を控える高校2年生の5人とその教師。ある日、若い男性と思われる人物が、レオタードを着用し鏡の前でポーズを取っている写真が流出する。写りこむ部屋の構造からして、同じ学区の高級マンションに住む人物だ。この写真に関わる騒動から、経済格差、(時にキリスト教に基づく)性的少数者への差別、苛烈な受験戦争、親から子への期待ないし束縛といった問題が語られる。

よく出来た作品だった。教育番組ぽいというか、中高生向けの観賞会とかで使われそうなそれだな、という印象を受けた。台詞は日常会話で親しみやすく、テーマも身近だ。一方で、出ハケ口がなく役者が常に舞台上にいて様子を見ていたりするのは演劇的である。善人/悪人だけの人がおらず、またドラマとしてあっさりとしているため感情移入させるような作劇でないのも、めでたしめでたしハッピーエンドみたいな終わりでないのも、差別を扱う作品の手つきとして好ましかった。
ただ、2015年初演ということで少し戯曲として古い気はした。レオタードを着ている青年がゲイと決めつけられ、ホモという言葉まで飛び出すのは、現在高級マンションに住む層がおおっぴらに行うことではないように思えた。偏見は残っていて陰口は叩かれそうだけれども。いやでも高校生は結構残酷なので大人の陰口を聞いて平気でやってしまうのかもしれない。

本作の何より素晴らしいのは、視覚あるいは聴覚障害のある人も共に観ることの出来る作品に、常に、なっていることだ。
上演開始前の挨拶の後、役者とその演じる役の紹介が行われる。役者は自らその役の見た目や特徴を解説するため、声でキャラクターを識別できるようになる。その後、ヒジュ(主人公の一人、体育科を目指す)の走る音、劇中で使われるダンス音楽の紹介がなされてから本編に入る。そして常に字幕が舞台のセンター上部に表示されている。これは日本での韓国語上演だからではなく、韓国での上演では韓国語字幕が表示されるそうだ。
こうした上演の仕方が演出効果を弱めてしまう作品もあるだろうが、公共劇場でしばしば行われる広い層に向けた作品とか、没入させない作りの作品とかでは、どんどん取り入れるべきだと思う。劇場をひらかれた場所に、と言うならば当然に。

『掃除機』@KAAT

会場:KAAT 中スタジオ
作:岡田利規 演出:本谷有希子
音楽:環ROY
上演時間:90分、休憩なし


無職の80代の父、引きこもりの50代の娘、無職の40代の息子の三人家族の姿が、掃除機「デメ」の目線から描かれる。

本作はもともと岡田利規がドイツの劇場に提供し上演した作品で、今回の上演は演出に本谷有希子を迎えてなされた。登場人物から分かるとおり「8050問題」を扱っている。
新演出にあたって宣伝時から特色として挙げられたのは、父役が3人いること、そして音楽をラッパーの環ROYが担当していることだ。私もこの2点に興味を抱き、チケットを取った。

ざっくりと「外に出てみる、外を見てみる」話と受け取った。そしてその対象は物語の登場人物のような「家の中にいる人」に限らない。観客そして自らが演劇/劇場の外に出てみる、ということも強く意識していたように思う。

環ROYはこの外に出てみるための起爆剤、今現在の均衡を壊す存在として機能していた。
環ROY演じるヒデは、家族3人のギリギリの関係性を壊す。また、ヒデが登場するシーンの長セリフはラップのリズムに近いかたちで発話されており、他の俳優と明らかに異なる。このシーンは観客に向けての語りなのだが、冒頭のデメの一人語り(演:栗原類。家族は観客に向かずデメに向かって話しかける)と比較すると熱があるというか、観客を煽ろうとする意識が強く感じられるセリフ回しで、異質な存在であることを際立たせる。
また音楽監督としての環ROYの存在も異質だ。舞台上にいてオペをしているのもそうだし、あげく飲み食いする。カーテンコールでも一人だけ客席に向かって退場し、観客を演劇の外へ向かわせようとする役目を果たしていた。極めつけに(これは演出の話だが)客席側のカーテンが開かれ、劇場の外が見えるようになる。

というけわけで、ほとんど環ROYの話しかしてないわけだが、そうなってしまうくらいには環ROYが異質で、かつその在り方が効いていた。
ただそのために、家族の話とか8050問題の話とかが軽くなってしまったことは否めない。ラストのパースペクティヴの話が、冒頭のデメの語りに対応していることは戯曲を読んでやっと気づいた。また父親役が3人いることの効果もあまり見出だせなかった。見ていて楽しかったけど。
つまりは視界を拡げる・外に出てみる、という作品のメッセージを演劇の方にかなりふった演出と捉えた。

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』

会場:あうるすぽっと
作:鶴屋南北
脚本・演出:岡田利規
上演時間:3時間15分(第一幕110分、休憩15分、第二幕70分)


歌舞伎は2度ほど劇場で観たことがある、『桜姫東文章』は昨春シネマ歌舞伎で観た、岡田利規は『未練の幽霊と怪物』を観た、という状態で臨んだ。

桜姫東文章は非常にむちゃくちゃな、シネマ歌舞伎でも「歌舞伎史上最もスキャンダラスでドラマティックな物語」と謳うような話だ。
心中の失敗から話は始まって、生き残った清玄が桜姫(かつての白菊、心中で命を落とした)に出会っても恋仲にはなれず、桜姫は自分を犯した顔も分からない男に恋焦がれているし、その男(権助)と桜姫が結ばれたかと思ったら、すぐに権助は桜姫を女郎屋に売り飛ばすし、なんやかやあって桜姫は息子も権助も殺すし、むちゃくちゃである。
歌舞伎ではこの殺しのシーンが終わると、華やかな三社祭の場となる。権助から家宝「都鳥」を取り戻したことにより、桜姫がお家再興を果たし大団円。めでたしめでたし。
……えぇ、いや、そんな急にめでたしとはならないよ! というのがシネマ歌舞伎を観たときの感想である。


さて、今回の岡田利規版。
廃墟らしい場所で桜姫東文章の上演会をする、という劇中劇の様相だ。といっても桜姫東文章以外の物語があるわけでなく、出番のない者は芝居の邪魔にならないところに寝転んだり座ったりしながら芝居を観て、掛け声(大向う)をかける。
また結末を除き、大きなストーリー変更はない。ただし服装と言葉は現代の、なんだろう下北沢あたりにいそうな若者のそれで、だらっと脱力している。音楽はラップのバックトラックのような音が控えめに、ほとんどのシーンで流れている。


物語と演出についてもう少し詳しく書いてみたい。まず物語。大きなストーリー変更はないと記したが、近年歌舞伎で上演されるものとは異なる点が2つある。

1つは第三幕「押上植木屋の場・郡治兵衛内の場」の存在だ。この場面は初演(1817年)以来上演されていないそうだ。そしてこれが大変恐ろしい話だった。
ざっくりと、桜姫とその弟松若の身代わりとなって、寺子屋の娘小雛とその許嫁の弟半十郎が殺される話である。
殺すのは誰か。小雛の許嫁であり半十郎の兄、半兵衛がまず弟を殺す。次に小雛の父、郡治兵衛が小雛を殺す。殺すためのプロセスもひどい。半兵衛が半十郎と小雛に男女の間柄があるだろうと問い詰める。二人はそれを否定するが、脅迫をして無理やり男女の仲だと言わせる。そしてその罪で殺す。
どうやら『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」部分を元にしているらしい。これも身代わりとなって子が殺される話で、人気の演目だそうだ。
これの最も怖いのが、最後に松若が出て来て「かなしいことだなぁ」みたいなことを言って終わることだ。いや、そんな、あなたの替わりになって人が死んでるのにその一言で終わってしまうのか! と驚きヒヤッとした。

もう1点はラストで、三社祭の場がない。桜姫が都鳥を取り戻すと、舞台ツラに進む。そしてお十(桜姫の替わりに女郎屋に出された)に目配せしながら都鳥を手渡し、お十はそれを遠くへ力強く放り投げる。すると「ハレルヤ!」との掛け声が小雛を演じた者からかかる。


次に演出について。

動きは過剰にだらっとしているが、あくまで「現代訳」あるいは「岡田利規訳」であって、歌舞伎の上演の様子をわりとなぞっている。大立ち回りが闘いってより舞踊だよねっていうかんじも上手い。
抑揚もわりあいに、ある。ただ真剣さがないというか、反応はするけどどこか他人事のような、出来事と本人の間に一枚布があるような雰囲気だ。
上演の様子をなぞる、という意味では大向うの存在がある。役者が見得を切る時なんかに「○○屋!」とか言う、あれだ。今回は「イナゲヤ」だの「ポメラニアン」だの、最後「○○ヤ」っぽくなる固有名詞が使われている。

現代訳する以外にもう1つ、実際の上演との大きな違いがある。これからの展開が舞台の真ん中、目立つところにプロジェクターで映し出されるのだ。これは実際の観客にのみ向けたものではない。この上演会中、桜姫の劇を演じていない役者も、時にわざわざ振り返ってまで確認し、次のシーンに進む。


以下感想。……というかトピック大きく2つ。


まず現在の歌舞伎における女性の排除および家(イエ)の存在について。

大きく変更されたラストシーンは、それらに対する強い批評を示した。お家再興に繋がる家宝を投げ捨てそれに喝采を送る、というシーンが女性の俳優3名によって作られている。
調べて驚いたのが、大向うをかけられるのは基本的に男性に限られ、女性がするのはあまり歓迎されない、というしきたりが存在すること。客の反応まで性別で制限すんのかよと思ったが、これ含めての"芸"として様式が出来、それが権威と結び付いた"伝統芸能"になってしまったらそういうことも起こるのか、と理解した。

また劇中にかけられる屋号も、家(イエ/ヤ)とはあまり関係がなさそうな言葉が使われている。気を抜けさせるためとか、観客は劇中劇の演者(本作品の演者でなく)のこと知らないからとかかもしれないが、結果としてそういう効果があった。歌舞伎においても「○○屋」というのは屋号、店の名前であって家を直接指すわけではない(らしい)が、子に受け継がれるにつれ、家の意味合いが強くなっているように思われる。

昨年京都南座で歌舞伎を観たのだが、出雲の阿国像を眺めたすぐ後に、男性の出演者ばかりの演目を観るというのは奇妙な味わいがあった。(楽しんだが)
受け継いでいくものはあるだろうが、「伝統だから」「そういうものだから」で終わらせてはつまらないし、そもそもそれって伝統なの? あるいは、どうやって伝統になったの? という問いもあるだろう。
現代訳はされているが、大筋はなぞり続けた作品の最後に「やっぱ何なんだよこれ!」と申し立てをするような、そんなラストだった。


次に、演劇における「没入」について。
まぁこれは、私が成河のメルマガに登録をしていて、そこでブレヒトとか没入とかいった話が出たので考えるわけです。

詳しい方にとっては今更な話かもしれないが、演劇における「没入する」っていうのは物語にのめりこむことじゃないんだな!と感じさせられたのが本作だった。いやこれは、没入するというのは物語に没入するんだろう、と私が勝手に思っていたという話か。

先ほど書いた通り、本作では今後の展開が舞台上で示される。どんな展開になるんだろう、とワクワクしながら役者の動きを追うことはないわけだ。当然歌舞伎にはそんな説明書は出てこない。が、じゃあ観客が予想もつかない展開に胸踊らせているかといえばそんなこともない。新作歌舞伎をのぞく大半の演目は、過去から繰り返し何度も上演されたもので、あらすじも詳細なものが調べればすぐに出てくる。歌舞伎をよく観る人は筋を把握して観に行っており、ほとんど行かない人は言葉からして分からないので、予めあらすじを読んだりイヤホンガイドを借りたりすることで演目を楽しむ。今日の歌舞伎上演は、物語の展開を追う楽しみが醍醐味の演劇ではないのだ。
展開を知った上で楽しんでいるのだ、もちろんそういう側面もあろう。何べんも観てしまう映画とかもそうだ。しかし歌舞伎には物語そのものへの没入を許さない存在がある。大向うだ。劇のキャラクターではなく、役者に対する掛け声が劇中にかかる。それがフォーマットになっている。昨年観た歌舞伎では大向うは禁止されていたが、花道に花形役者が登場したり去っていけば拍手が起こった。つまり観客は物語を楽しむだけでなく、役者を見に行っており、そしてそれは劇の展開が最高潮を迎える時でも忘れ去られることなく、むしろその時に強く感じられさえする。

では、そんな物語に没入させない歌舞伎が、ドライな"叙事的"な演劇かといえば、そうではない。華やかな場面では客席も明るい雰囲気になるし、重たい場面は客席もグッと集中する。その時観客が没入しているのは、歌舞伎という劇空間だ。
役者や美照音響そして観客が、歌舞伎の形式を意識しそれに則ることで演目が成立する。よく役者や演出家が「お客さんが入ることで演劇は初めて完成する」と言ったりする。そうだと思う。しかしその客の反応までもが形式化されている、あるいは求められる反応を客が察知しそうしているのだとしたら、それは恐ろしいことだと思う。そしてこういうことは歌舞伎に、演劇に限らないだろう。私の反応は私の反応だけど、それは周囲の社会の影響を受けているものだ。そういう意識・疑い、みたいなことを思った。このブログだって、まさに。